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zoom RSS 丸岡にある天澤寺は、加藤家終焉の地

<<   作成日時 : 2006/04/14 10:17   >>

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加藤 忠広(かとう ただひろ、1601年(慶長6年)
1653年8月1日(承応2年閏6月8日))は、江戸時代前期の大名。
加藤清正の次男。室は蒲生秀行の娘(徳川秀忠の養女)。子に加藤光広。
1611年、父の清正が死去したために熊本藩主を継いだ。若年であったため、藤堂高虎が後見人を務めたと言われている。しかし父と違って統率力に欠けたため、家臣団を完全に掌握することができず、政治は混乱したと言われている。
1633年、将軍・徳川家光によって改易された。これには諸説があり、一説では忠広が家臣団を統率できなかったためとも、法度違反のためとも言われている。また、一方では駿河大納言事件に連座したためとも言われている。
 近年では加藤氏が豊臣氏恩顧の有力大名であったために幕府に警戒され、理由をつけられて取り潰されたという説が有力である。その後は出羽丸岡に1万石の所領を与えられ、庄内藩主・酒井忠勝預かりの身となったが、このとき忠広には1万石が与えられ、丸岡藩がここに成立した。しかし忠勝は忠広を哀れに想い、毎年米100俵を支給していたと言われている。
 忠広は承応2年(1653年)閏6月8日に死去し、丸岡藩は廃藩となった。その後、丸岡領は天領、及び庄内藩領となったのである。
 丸岡地区は、庄内と山形県内陸部を結ぶ旧六十里越街道に対する要地。鎌倉時代より、当地方を支配する武藤氏の支城がおかれてた。
 この丸岡にある天澤寺【テンタクジ】は、加藤家終焉の地としての史実とともに、「清正公が眠る菩提寺」として、全国から多くの参拝客が訪れ.る。
 参道では、禅の思想を具現化した理想的な人間像という十六大阿羅漢が出迎え、加藤清正公の墳墓(五輪塔)や清正閣をはじめ、綴錦織の世界的巨匠 遠藤虚籟の糸塚などがあり、秋深くなる頃、境内の大いちょうの木が黄金の美しい彩りを放つ。
 加藤清正公墓碑は、丸岡の人々から「清正公様(セイショウコウサマ)」の愛称で呼ばれ、毎年7月23〜24日には、「清正公祭」が行われます。
 丸岡城は、鎌倉時代から天正年間まで、当地方を治めた武藤氏の時代、大梵字(鶴岡)の南方、六十里越口と大鳥越口のおさえの要地として、後に武藤家尾浦城主となった丸岡兵庫頭義興が在城した。
 武藤家のあと上杉氏、さらに最上氏が領有したが、元和元年(1615年)の一国一城令により城の楼閣は取り払われた。
 最上氏改易の後、元和8年(1622年)に酒井氏領となった。

 寛永9年(1633年)、加藤清正公の嫡子・肥後五十四万石の領主加藤忠廣公が幕府に領地を没収され、庄内藩酒井氏に預けられた。
 酒井氏は、この城跡に忠廣公と生母正応院様の居館、女中の長つぼね、家臣の長屋などを新築した。
 この館が丸岡大火によって消失したため、忠廣公が京都にあった館を移築し、承応2年(1653年)忠廣公逝去まで居住した。
 忠廣公没後、領地は幕府御領となった。
 城跡の広さは約2haで、南側の一部は住宅地となり、ほかは主に庄内柿などの畑地となっている。
 四方を囲む堀のうち残っていた北側部分が復元され、廷内に今も姿をとどめる奥庭の泉水(百間堀)と庭石(巫子石、太夫石)がわずかに往時を偲ばせている。
 丸岡城跡は、昭和24年の発掘調査によって推断された天澤寺の「加藤清正墓碑」とともに、昭和38年に山形県指定史跡となった。
天澤寺と加藤清正公墓碑
 所在地 山形県鶴岡市(旧櫛引町)丸岡
 天澤寺(曹洞宗)は鶴岡市(旧櫛引町)の西、丸岡の丸岡城跡北側にある。
 天澤寺は、あの加藤清正の縁の地ともいわれている。
 加藤忠廣と正応院は、清正公の御遺骨を密かに捧持し、居館奥庭の太夫石の元に治め、丸岡大火の翌年に天澤寺世代墓地の五輪塔の元に安置した。
 この清正閣も五輪塔、神子石・太夫石とならぶ重要な史跡である。はじめは土饅頭の上に石碑が載っていたのであったが、天保年間に祠を建てた。中の鉾型の碑は、熊本特産の島崎石であり熊本から運んだものである。
 昭和24年、清正公遺骨探検の調査では第一番目にこの閣の下が発掘され、その結果、地下2メートルの地点から清正公着用と推定される鎧が出土し、天澤寺に保存されている。
 尚、そばの小さな五輪塔は、密かに野に下した忠廣公の子供のものと言われている。

加藤 清正(かとう きよまさ)
 尾張国中村(愛知県名古屋市)に生まれる。
母・伊都が豊臣秀吉生母である大政所の従姉妹(一説には妹)であり、血縁関係にあった秀吉に仕える。
天正11年(1583年)に織田信長の死後に秀吉と織田氏家臣の柴田勝家の対立から起こった賤ヶ岳の合戦(しずがたけのたたかい)で賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられる戦功を挙げて以降、数々の戦いで功をあげる。
天正16年(1588年)、肥後の佐々成政が改易された事により、小西行長と共に肥後半国を与えられ、熊本城を居城とする。
文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵。
文禄の役では朝鮮二王子(臨海君・順和君)の生捕りや、オランカイ(現在の満州・中国東北部)への威力偵察など、数々の功を挙げたが、石田三成と意見の対立が生じ、それが元で秀吉の勘気を受け京に戻される。
慶長の役では小西行長と共に先鋒となり全羅道攻略、蔚山城の戦いで明将楊鎬の大軍を防ぐなど活躍し、朝鮮の民衆から「鬼上官」といわれた。
朝鮮では五奉行の石田三成や小西行長ら、文治派と呼ばれる一派と対立する。
なお、朝鮮出兵中に虎退治をしたという伝承が残る。
また、セロリを日本に持ち込んだとされており、セロリの異名の一つが「清正人参」である。
秀吉の死後には五大老の徳川家康に接近した。
そして慶長4年(1599年)3月に前田利家が死去すると、福島正則や浅野幸長らと共に三成暗殺未遂事件を起こした。
慶長5年(1600年)に三成が家康に対して挙兵した関ヶ原の戦いでは九州に留まり、家康ら東軍に協力し、九州内の西軍勢力を牽制した。
役後の論功行賞で、肥後の小西行長旧領を与えられ52万石の大名となる。
なお小西行長が居城とした宇土城は慶長17年(1612年)、一国一城令により破却された。
慶長16年(1611年)には二条城における家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋する。同年に熊本城で病死。享年50。
法名:浄池院殿永運日乗大居士。墓所:熊本市花園の発星山本妙寺の浄池廟。
また、山形県櫛引町丸岡の金峰山天澤寺。さらに、東京都港区白金台の最正山覚林寺(清正公)に位牌。
なおまた、東京都大田区の長栄山大国院池上本門寺にも供養塔。奉斎神社:熊本市本丸鎮座の加藤神社。

死後と評価
 死後の寛永9年(1632年)、加藤家は幕府の命により改易になった。
 また、清正の死が家康と秀頼の対面直後であったため、清正の死去は家康一派(裏柳生)による毒殺説もある。
 築城の名手として知られ、特に大きな反りを持たせた石垣の積み方が美しいといわれた。熊本城や、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わった。また、領内の治水事業にも意を傾け、熊本県内には現在も清正によるものと伝えられる遺構が多く存在する。
 宗教面においては熱心な日蓮宗信者で、領内に本妙寺をはじめとする日蓮宗の寺の建立を勧めた。法律面でも、アメリカより先んじて三審制を取り入れている。これは武士のみが対象であったが、軽微な罪や式典で粗相を3回起こすと切腹を申し付けられるものであり、そのため加藤家の家臣は行儀の良いことで有名であったという。
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エピソード
 6尺3寸(約191cm)の大男だったと言われている。だが実は5尺3寸(約161cm)にも満たない身長であったが、かぶる兜を長くして全体像を高く見せる事によって、相手に威圧感を与えようとしていたという説もあるようだ。
 かなりの潔癖症であり、便所で用を足す際は30cmの高さもある下駄を履いてしていた。 口の中に拳を入れる事ができたという逸話がある。その話を聞いた新選組局長近藤勇も憧れていた清正にあやかり、真似をして拳を口に入れていた。
賎ヶ岳の七本槍
福島正則(1561年 - 1624年)
加藤清正(1562年 - 1611年)
加藤嘉明(1563年 - 1631年)
脇坂安治(1554年 - 1626年)
平野長泰(1559年 - 1628年)
糟屋武則(1562年 - 1607年)
片桐且元(1556年 - 1615年)

加藤 清正(かとう きよまさ)
永禄5年6月24日(1562年7月25日)
慶長16年6月24日(1611年8月2日))は安土桃山時代・江戸時代の大名。
父は加藤清忠。正室は正応院
のちに水野忠重の娘(徳川家康の養女)。
子に加藤忠広ほか。幼名は虎之助。初代熊本藩主。
官位は従四位下、肥後守、主計頭、侍従。本姓は藤原を称す。
明治43年(1910年)に従三位を追贈された。

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はじめまして!
熊本城とこちらの清正公の菩提寺本妙寺のお膝元に住んでおります。清正公の400年忌がもうすぐなのですが、300年忌は乃木希典が仕切ったと聞いています。また東京の二重橋など造った種山石工は、通潤橋(江戸時代晩期)建造にも関わっているのですが、清正といっしょに朝鮮半島から日本にきた職人の子孫の一派であるなど、エピソードは尽きません。球磨川流域の八代平野〜菊池川まで灌漑治水の功、その恩恵は今も大きいものです。
小西行長の宇土城とありますが、その地にゆかりがあり、嬉しい気持ちになりました。
ayumiyori
2006/04/21 18:07

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