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zoom RSS 石原莞爾 盧溝橋事件から69年

<<   作成日時 : 2006/08/26 15:53   >>

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 石原莞爾、彼は、陸軍大学二番卒業の秀才、満州事変の首謀者、2・26事件の鎮圧者、日中戦争の不拡大の主唱者、東条英機の政敵、太平洋戦争を前に京都師団長最後に陸軍を罷免。立命館大学講師、その後は故郷庄内で隠遁生活、終戦後他の満州事変の首謀者達が次々と戦犯に、なぜか彼は起訴もされずに昭和23年癌で死亡。
 はて、我が庄内が生んだ石原莞爾は、戦争推進派なのか、反対派なのか、よくわからない人物。この複雑さの根底を探るために、死後50年以上もたった今でも、新しい研究書が外国からも出版される事がある。これは非常に珍しい。ある人達は一種教祖の如く崇め、またある人達は大陸侵略の巨魁、日本を敗戦の惨禍に陥れた元凶と非難する。
 昭和3年に関東軍参謀となり、柳条湖での満鉄爆破事件を指導。しかし、鉄道爆破は中国軍の仕業と偽称(解明無し)して直ちに軍事行動を開始し(満州事変)占領した。若槻内閣の不拡大方針を無視し、4ケ月後に満州全土を占領し、15年戦争の端緒期を指導した中心人物。とある。その後も関東軍参謀副長などを経て、舞鶴要塞司令官から、昭和14年8月に京都第十六師団長に就任、深草の官舎(歴史的建物が今壊されようとしている。)で暮らした。彼は、盛んに「世界最終戦論」を説き、深草練兵場では、夏期でも冬装束での将兵を訓練した。しかし日米戦争を予定した東条英機に、昭和16年3月に京都師団長を罷免され、立命館大学国防学教授に就任。その後、彼は衣笠の臥龍庵で東条批判を続け、翌年には立命館も追われ郷里庄内に帰った。
 日本の全面的な中国侵略戦争の契機となった盧溝橋(ろこうきょう)事件から69年。小泉純一郎首相が参拝に固執する靖国神社は、盧溝橋事件から日中が全面戦争となった背景について、日中和平を拒否する中国側の意志があったとし、蒋介石に責任があると描いている。と言う。
 石原莞爾もそうだが、ご存知の人も居ると思うが小磯国昭も南雲忠一も山形県人なのだ。小磯は山形中学で学び、南雲は米沢興譲館で学んだ。我が山形は陸、海軍のエースそして総理大臣まで輩出している。余談であるが、指揮者、小沢征爾の名は板垣征四郎と石原莞爾にちなむとのこと。また、虹色のトロツキーも非常に面白い。
 酒田には本間様の時代からの光丘(みつおか)文庫と酒田光丘図書館と二つの図書館がある。一応両方の図書館に石原莞爾関係の書類はあるのだが。実際の石原自筆のものやドイツ留学中のナポレオン研究などの写真・手紙となると光丘文庫。
 石原のお墓は、吹浦駅から歩いて20分ほどで国道7号線のバイパス。そこから鳥海山が見える方向へ行くと看板と日輪講堂がある。看板の指示どおりさらに進むと坂道があり、登っていくと石原のお墓がある。また、同志之霊碑が隣にあり、更にその手前に石原の肖像と自筆の「永久平和」「都市解体・農工一体・簡素生活」の記念碑がある。
その裏には
 「石原莞爾は大正14年に最終戦争論を発表し、昭和24年に死ぬまでの彼の一切の思想、行動はこの歴史観に基ついていた」
 満州事変と日華事変の処置、軍備計画の樹立、日本最初の国家経済計画の立案、東亜連盟運動の指導、太平洋戦争の阻止運動から、敗戦後の武装完全放棄論まで、彼の思想と行動のすべては最終戦争論から導きだされたものであった。
実弟 石原六郎氏
 最終戦争論で近い将来戦争は無くなると断定した石原先生は、全人類の熱望する永久平和の時代が、近代科学文明を駆使したところの「民族協和共存共栄」の社会であるとし、その第一歩として戦後日本の進路を「都市解体」「農工一体」「簡素生活」の三目標に要約され、この目標達成こそが最終戦争を回避して、永久平和社会に到達し得る最良で最短の道であると教示された。
 われらがこの選択を誤った場合、最終戦争は必然となり、地球上は大惨禍の坩堝より近代文明の建設という想像を絶する苦難の道を歩まねばならぬとされた二者択一は懸って私達の双肩にあるといえる
と記されている。
石原莞爾略年譜
明治22年1月18日、山形県鶴岡町(現在は鶴岡市)に生まれる。
明治40年12月1日、陸軍士官学校(第21期生)に入校
明治43年4月、第56連隊、韓国・春川へ派遣
明治45年4月、日本帰還
大正4年11月29日、陸軍大学校(第30期生)入校
大正8年4月15日、大尉昇進、中隊長となる。
大正9年4月、中支那派遣軍司令部付、漢口へ
大正11年9月〜、軍事研究の為、ドイツ駐在。ベルリン居住
大正13年10月、陸軍大学校兵学教官。帰国
昭和3年10月、関東軍参謀、旅順へ
昭和6年9月18日、満州事変勃発、(作戦主任参謀)
昭和7年8月〜昭和8年5月、国際連盟総会臨時会議帝国代表随員(松岡洋右全権)。ジュネーブへ
昭和11年2月、2・26事件。2月27日より3月7日まで戒厳司令部参謀兼務で処理に当たる
昭和12年9月27日、関東軍参謀副長
昭和13年12月5日、舞鶴要塞司令官
昭和14年8月、中将昇進、京都第16師団長
昭和16年3月、予備役編入、立命館大学教授として国防学を教える
昭和16年9月、京都から故郷鶴岡市に転居
昭和17年9月、立命館大学を辞す
昭和18年春、甘粕正彦の仲介で、陸相官邸で東条首相と会談
昭和19年7月、小磯国昭首相と総理官邸で会談
昭和21年10月12日、山形県飽海郡高瀬村(現在、遊佐町)に転居
昭和22年5月1〜2日、極東国際軍事裁判酒田出張法廷に証人として出廷
昭和24年8月15日、没
参考文献
『石原莞爾資料 国防論策』
『石原莞爾選集』
角田房子『甘粕大尉』
青江舜二郎『石原莞爾』

最後に
 加藤氏の実家への放火事件で、戦前の激動を想起し、いつか来た道の再来を懸念することはあまりに非現実的な空想なのだろうか。
 暴力で言論を黙らせることは絶対に許されない。
 かつて暴力への沈黙が軍国主義、ファシズムを生み、言論への暴力への対応を怠ると、知らないうちに鈍感となり、気がついたら・・・・・・・・・・。

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