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zoom RSS 先人達の残した空間を次代へ

<<   作成日時 : 2006/06/09 11:22   >>

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 阪急梅田コンコース解体。
 信じられない……。
 あそこには伊東忠太の壁画があって、コテコテの独特の雰囲気を醸し出していたところ。
 先人達の残した空間を次代へ伝えていく努力をするべき……。
 伊東忠太は法隆寺の源流を求めた旅する建築家としてよく知られている。東京では、築地本願寺にボルヘスではないけれど幻獣のような奇怪な動物たちを残したことでもとてもよく知られている。コンコースの壁画の四隅には中国神話の四神のうち、青龍・朱雀・白虎と、ギリシア神話から天馬が描かれ、壁画の真ん中には月に白ウサギ、赤い日輪に八咫烏の意匠も。この壁画だけは解体をまぬがれ、新ビルへの活用が検討されている。
 忠太はロバにまたがり、シルクロードを、そして地中海、トルコなどへと調査を巡った。ジョサイア・コンドルが日本の近代建築に残した業績は大きいが、西洋の模倣に対して懐疑心を抱き、日本建築を模索した点で注目すべき人物です。
 伊東忠太は、明治維新の前年、まさに幕末から明治に移るその時、山形県米沢市に生まれた。代々、医者の家系で、祖父はシーボルトの弟子。十七歳の時に描いたと思われる浮世絵美人画が残されている。絵描きになりたかったらしい。だが、父は「不甲斐ない了見」だと反対。思いを閉じたまま、帝国大学工科大学造家学科に進む。秘めた画才はしかし、キャンバスではなく、独自の建築物で大きく展開。日本建築の祖・コンドルは、辰野金吾たち教え子に「建築とは何か」を問いかけた。そのテーマを生涯追い続けたのは、辰野の弟子である伊東忠太だった。伊東の卒論は『建築哲学』。美は古今東西どこにでもある、と言い切った。そして、大学院の時に著した『法隆寺建築論』で、「法隆寺は世界最古の木造建築であり、ギリシャ神殿の美とつながっている」と標榜した。伊東によって火蓋の切られた日本建築論。建築史研究の始まりだった。造家は建築と名を改めた。
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伊東 忠太(イトウ チュウタ)
 建築学者・工学博士。米沢座頭町生れ。米沢藩士伊東祐順(平田東助の実兄)の次男。外国語学校独逸語科、第一高等学校、東京帝国大学工科大学造家学科、同大学院。法隆寺を研究して明治31年「法隆寺建築論」論文を発表。30年に「造家学」を「建築学」と改称した。32年東京帝国大工科大学助教授、38年同教授、帝国学士院会員、帝国芸術院会員、東京帝国大名誉教授。この間、明治工業史編纂委員、関東大震災後の帝都復興院評議員、外務省対中国文化事務局委員、日独文化事業評議員、史蹟名勝天然記念物保存協会評議員、国宝保存会会員、法隆寺壁画委員会委員長等、多方面で活躍。
 日本に初めて建築学を一つの科学として仕立てあげ、中国から中央アジア、満州、仏印等を調査、「伊東忠太建築文献」「支那建築装飾」著述。また東京築地本願寺をインド様式で設計、伊勢両宮、明治神宮、平安神宮、靖国神社、震災記念堂、外地では台湾神宮、樺太神宮、朝鮮神宮、そして米沢の上杉神社等、建築設計の実務に当り造営された神社仏閣は実に数多く、何れも日本建築の粋といわれる。昭和18年に文化勲章を受賞する。
【主な作品】
●祇園閣平安神宮(1895年、共同木子清敬・佐々木岩次郎)
●二楽荘(1910年、神戸、焼失・現存しない)
●真宗信徒生命保険(1912年、京都、現伝道院)
●明治神宮(1920年、社殿の多くは戦災焼失)
●兼松講堂(1921年、現一橋大学講堂)
●大倉集古館(1927年)
●祇園閣(1927年)
●震災祈念堂(1930年)
●遊就館(1930年)
●靖国神社神門(1933年)
●築地本願寺(1934年) [1]
●湯島聖堂(1934年)
●俳聖殿(1941年、伊賀)
●上杉神社社殿(1941年、米沢)
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